社長インタビュー
リヤカーを引いて大江町まで
祖父が築いた株式会社 雀部
————株式会社雀部は元々どんな会社だったんですか?
雀部の初代である祖父のころは、大正時代、大江山の鉱山が夜久野町で林業が盛んに行われているころでした。
鉱山や林業の方向けにワイヤーロープやリヤカー、スコップや鍬などの販売から始まりました。祖父は福知山から大江町までリヤカーを引いて配達に行っていました。
その後、鉱山や林業の仕事がだんだん衰退していき、業態の変化が必要になりそこから建設や土木向けの卸業や、福知山市内の鉄工所さん向けの販売に変わっていきました。
そこから長田野工業団地ができたのがきっかけで、前代(2代目)がもともと機械に長けていたところから、建設業さん向けではなく、製造業さん向けに変わっていきました。
なので、僕が生まれた頃には会社としては機械工具省としてシフトしきっていました。
自然な流れで後継ぎの道へ
そして継ぐ前にどうしてもやりたかったこと
————株式会社雀部を継ぐと決めたきっかけは?
僕の父は商売人向けという性格ではなく、機会メーカーの研究室で働きたいという人でした。でも後を継げる息子が父しかいなかったので、後継ぎとして戻ってきてくれと言われ、雀部を継ぎました。なので、僕の兄貴には無理して継がすという教育ではなく、自分の好きなことをやりなさい、という教育でした。僕の家は、僕と兄貴と男の子2人なので、どちらかが継ぐだろうという考えでした。
僕が中学の頃に父と大学生の兄貴と3人で会議をしたのですが、そのときに兄貴が都会で大きな会社で働きたい、という憧れをもっているということを知りました。
そんな兄貴の想いとは反対に、僕は単純に「お父さん好きやし、福知山好きやし、ここにおるわぁー」と言っただけです(笑)
その家族会議以来、自分の中で後を継ぐという意識があったので、その後工学部がある大学を受験したのですが、僕は勉強が苦手だったので、次々と落ちてしまいました。
————後を継ぐと決めたのに、ショックだったのでは?
僕は落ち込んでいましたが、父は反対に『別にかまへんやないか』と励ましてくれました。
『お前は継ぐんやから、4年間大学に行くところを、2年間経営の勉強をして、あとの2年は機械のことを勉強する時間にしたらいいやん』と提案してくれたので、大阪の専門学校で簿記や販売士などの勉強をし、その後機械工学部がある短大で、機械のことを学びました。
そして、短大をもうすぐ卒業するという頃に、父の体調が悪くなったからすぐに帰ってきてくれと連絡がありました。
後を継ぐと思ってはいたものの、そんなすぐには心の準備はできていない!と焦りました(笑)本当は4~5年、社会人として働いて経験を積んでから後を継ぐと思っていましたが、それはできそうにない。だったら、ずっと憧れだった海外にはどうしても行きたい!と思い、1年だけ時間がほしいと父に伝えました。
すると、父はそんな想いを持っていたのか、と。実は、父は国際交流には想いがあり、兄貴も留学したり、留学生を迎えたりもしていたので、その願いに理解を示してくれました。
そして、しっかり日にちも決めて約束をし、1年間留学をさせてもらい、ちょうど1年後の4月2日から雀部に入社しました。
ニュージーランドへ留学して感じた
“本当の幸せ”とは
————-1年間海外へ行ってから帰ってきたときの心境の変化はありましたか?
僕が日頃からよく言っている『笑顔』というのは、まさにこのときにニュージーランドに行って感じたことからなんです。
ニュージーランドでは、仕事ばかりせずに家族との時間や休日を大切にしているんです。
経済大国という感じではなく、みんながそこそこ幸せならそれでいいやん、という感じでした。ベンツやレクサスに乗らなくても、普通でも幸せならそれでいいという。
お父さんは朝8時半に仕事へ行って、5時には帰ってきて、息子とキャッチボールしたり、娘とガーデニングをしたり、、、そんなお父さんの時間の使い方に今でも憧れます。自分ができているかといえば、できていませんが(笑)社員さんにはそうあってほしいなと思います。
——ニュージーランドに行きたかった理由は?
物価が1番安かったので(笑)
僕は大学にも行ってないので、バイトで貯めたお金で、英語圏で1番物価が安い国という理由で選びました。1番はじめはホームステイで行って、向こうの日本食レストランで皿洗いのアルバイトをしたりしました。
そこで、イングリッシュガーデンの勉強をしにニュージーランドに来ていた今の奥さんに出会いました。今はお庭も用意してあげられない一軒家ですが(笑)
——それはすごいですね!ニュージーランドに行って得た大切なものがたくさんあったんですね。
そうですね。
さっき、ニュージーランドに行ったのは、会社を継ぐ決心ができていなくてと言いましたが、ニュージーランドに行ってから日本とは違う価値観や笑顔を見て、『会社を継ぎたい』という想いが強くなりました。
そして、父に『継ぎたいと思ったから帰るわ』と電話し、すぐ帰国しました。
実際に帰ってから働きはじめると、大変なことだらけでした。
いきなり仕事ができるわけでもないし、社長の息子だという目でも見られますし。あいつが将来雀部を潰すんじゃないか、と影で言われていたということも周りから聞いたりして、それが悔しくて頑張れたという部分もありました。
でも継ぎたいと思ったあの時の気持ちは確かだったので、その想いを忘れず、『みんなを笑顔にする』という原点はずっと心の中にありました。
みんなで一緒に幸せになりたい
そのためには仕事も“楽しさ”を忘れないこと
僕自身、そんなに仕事に対する時間が気にならないので、土日に仕事をするのは良くないかもしれませんが、それも人一倍頑張りたいという想いがありますし、でも人の倍遊びたいという気持ちもあります(笑)
60歳前で引退したいという夢があるので、しっかり会社を今以上に軌道に載らせて、妻と一緒に出会った場所でもあるニュージーランドで過ごしたいと思っています。
合併したことで夢が広がるので、次にこの会社を継いでくれる人が、安心して継げるような状態にしたいと思っています。
もちろんプレッシャーはあると思いますが、同時にワクワクも用意してあげたいなと。
普段やっている仕事は地味なこともあるかもしれませんが、有名企業さんの仕事に関われているということは、すごいことだと思うんです。
なので、社員さんに対してはそういう部分でも、自信持ってよ、誇り持ってよ、ということは伝えていて、それを感じてほしいなと思っているんです。
日本の大きい企業さんと仕事ができるということは、プライドと自信をもってできることですし、楽しいことでもあると思います。
そうやって楽しんでやっていった結果、僕と副社長だけ幸せになったって仕方がないので、みんなで一緒に上がっていきたいという気持ちが強いです。
福知山でそんな良い環境で仕事ができるということがありがたいですし、福知山の他の企業さんとは足の引っ張り合いをするのではなく、お互いに魅力発信ができればと思っています。
やっぱり楽しいと会社は盛り上がると思うので、楽しそうかな?という視点でいつも見ています。
もちろん凹むときもありますが、そういうときは自分に対して「なぜ?」を5回問いかけることにしています。そうして自分に問いかけたときに、いつも悪いのは僕なんですよね(笑)「あ、僕やん!」っていつも気付きます(笑) 人が悪かったことってほとんどないんです。
なので、結局自分がやり直すしかないんですよね。
そして、今僕にとってパートナーが心強いんです。
僕はすごく感覚タイプなので、書類などは副社長に投げています(笑)
経営の部分も副社長は細かいのですごく助かります。副社長はしっかりと数字を見てくれて、まめに報告もしてくれるし、それぞれの得意分野で分担ができたらと思います。